本厄
厄年というものがある、今年私は本厄だ。
3年くらい前の私だったら、まさか今の私が神社行って厄落としの祈願して家に塩盛って2礼2拍手1礼をマスターしているなんて思いもしないだろう。そういうものに全くこだわりや関心がなかったのでとにかく人生絶不調で神にしか頼れなくなっている状態。
とにかく何も現実世界で信じられないというか、頼りにできないという状態になった。なので一つ一つ見直したりしていこうと思っている、自堕落な人間ができるすぐにできることではない。心配事をいろいろ潰していくうちに、友人と初詣行った際に、そういえば本厄ってやつだしもう全部本厄のせいってことにして、本厄に対してコミットするぞって気になってきた。早速神社に行って祈願したら、木札と塩と御神酒をもらったので飾ったほうがいいよな。と思い、方角を調べて神棚を作ることにした。塩ももらったので小皿に盛って良いとされる場所に置いた。かたちあるものがあるとなぜかやってしまう。あっという間にそういった道具を揃えて飾ったらかたちになってしまった。ああもうなんでもいいのでこの煩わしさや自分から解放されたい…。
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春のような陽気であった。
体調がずっと悪くて病院に行ってもこれといって解決はしなくて、明日は良くなっているといいななんで思いながら毎日寝る。本当に辛い。こんなこと書いても解決しないのが辛い。おそらく精神的なことも原因なんだと思うが、思い起こせば本厄ってやつだからそれのせいかも、年齢的に若年性の何かだったりするのかなとか悪いことをどんどん思いつく。今できることはとにかく過ぎ去るのを待つだけなんだなと思う。
最近わかったこと
ここ数年でようやくわかったことがあって、私は短期的に集中できるものがないとダメなんだと思った。中長期は苦手、やり方を考えればできそう。
たとえば、ゲームは趣味でずっとやってるし好き。なんだけど、同じゲームをずっとやっていることは少なく、ストーリーのあるものが好きなので結構すぐクリアしてしまう(やりこみもそこそこである)。たまに思い出したようにエンドコンテンツを触るけどどうしても繰り返しのターンになってしまうと飽きてしまうので次のゲームに移行してしまう。やるゲームがないと暇だなとか思う。だいたいそうゆう時は他の趣味に走っている。
このように短期的な変化を中長期続けることは得意のようで、ほんとうにどうしようもなく飽き性。
思い返すと学校の勉強もつまらなくてすぐ飽きた。英語の授業はすごく好きだった。なぜかというと映画と海外ドラマが大好きで単純に海外の文化への理解度が上がるからだった。勉強が好きなんじゃなくて自分の興味のあるものに関心が深まるのが好きなんだと思う。
遊びながら学べる、みたいなのもちょっと違くて遊びたいわけじゃないんだよなあ…自分に合う勉強・取得方法をもっと確立したい。
んで今興味あるのは、うん年ぶりに英会話なんだけど、インターネット見てると日本語で書かれたものあんまり面白くなくて、英語で書かれた記事の方が数多いのでそっち読めるようになりたいな〜というのが理由。あと洋ゲーよくやるようになったから。
手が小さいですね
書く場所が定まっていない、迷うくらいならブログを分けることはしないほうがよかったな。まぁいいか。
昼過ぎにぐんにゃりと起きる。読みかけの本を少し読んで昼ご飯を食べた。その頃には外は薄暗くなっていた、台風が来るのだった。夕方に六本木に用事あったのでだらだら本を読んでいたけど準備して向かう。雨はまだ降ってないけど傘を持って行く。
出先で「手が小さいですね」と言われて、そうかなと思ったけどまぁ自分は小柄な方なのでそうかもしれないです。「かわいい!」と言われたけど咄嗟に返さなくて、サイズがなくて大変でもある。と答えた。
用事を済ませた頃には雨が降っていた。そのまま帰るのも物足りないので映画観るか展覧会に行くか迷って、眼鏡がないので眼鏡がなくても楽しめそうな森美術館でやっている建築の日本展に行く。よかった。展示のなかで、夏休みに行った香川の建築物についてがあって、やはり現存しているものはすごいなと思う。後半は昼から何も食べていないので空腹で少し早足で終えてしまった。夕方以降に行く森美術館は、人が少なめで夜景がきれいなのもあってそれもよかった。お腹が空いたので近くのハンバーガー屋でバーガーを食べている。バンズのカリカリが落ちてシャツの中に入っていってどうしたものか…と思いながらこのブログ書いてる。どこでカリカリを外に出したらいいんだ。
定期的にくるソーシャル見たくないけど手癖で見てしまうというやまい
ここ数年、ソーシャル見るの異常に疲れるな…なのになんで気がつきゃ親指でアプリ開いては更新してんだろうなって思う。
度々書いてるけど、多分今までは自分の知りたい情報とか、会ったことがないけど知りたい人の情報しかインターネットに用がなかったけど、色々と繋がりが強くなって目線の合わない(価値観とかではなく意思疎通の意図のないという意味で)人々の生活が覗けてしまうソーシャルに疲れてしまったんだと思う。それでそれはもう仕方ないので、多分自分がソーシャルに向いてないんだと思う。
今も普段通りソーシャル使っている人に「ソーシャル疲れませんか」って聞いたことがあって、疲れないと答えていた。その人は、自分が発信した後のソーシャルの反響を気にしないようにしていると言っていた。これを聞いて、私はインターネットが得意だったわけでなく、人が少ないところが好きだったんだなと気が付いたのだった。徐々に、リアルタイムで更新されるソーシャルを見る時間を減らしているようにしてる。